「幸せとは?」

いつも盛和塾でお世話になっていますS社長からいただいたメールにこんな内容があったので皆様方にもお伝えしたいと思います。要は「心のあり方」なんですね・・・

★幸せとは?

幸せになろうと思わないで下さい。

幸せをつかみに行って幸せをつかんだ人は
1人もいません。

幸せは感じるものです。

(by 金八先生 )

金八先生もいい事を言いますね。

おいしいものを食べようという言葉は、食物や料理といった品物を考えています。
おいしく食べようと思えば、これは感じ方、心の問題です。
仲の良い家族や仲間との楽しい食事ならば、食べるものが何であれおいしく感じます。
何を食べるかでなく、どう食べるのかが問題なのです。
金八先生の言葉と同じことかなと思います。

小さな喜びや幸せを感じる心を育ててください。
       
           (ある産業女医さんから頂きましたありがとうございました。)

「謙虚にして驕らず」

つい先日年が明けたと思ったらもう1月が終わってしまいました。寒さも日々緩んできて、もうすぐ春を迎える準備が自然界では着々と進んでいます。さて2月8日は南蔵院さんの節分祭が行われました。弊社からは会長(南蔵院信徒総代)と関相談役と私が豆をまく役で参加させていただきました。今年は天気も良く、多くの方がご参拝をされていらっしゃいました。(南蔵院周辺の駐車場も満車だったそうです。)福は〜内!鬼は〜外!。鐘の合図で一斉に豆まきが始まります。あっという間でしたが、たくさん拾われた方、まったく拾えなかった方さまざまでしたが、滞りなく終了したみたいです。私は毎年参加させていただいておりますが、必ず2つほどクジつきの豆袋をポケットに忍ばせます。(南蔵院さんすみません!)それは多くの方が参加されている中、前述しましたようにまったく一つも豆袋を拾えない高齢の女性の方がいらっしゃるのです。涅槃像広場から仲見世通りに降りる階段のところで残念そうな方に「拾われました?」と聞くのです。最初のお一人目は、「ダメダメ!ぜんぜん飛んでこんとよ!」とおっしゃったので、「そうですか。よかったらこれどうぞ。」とクジ入りの豆袋を一つお渡しいたしました。「えっ、いいの?ありがとう!」と言われ、そのまま景品交換のテントに直行されました。続いてお二人目の女性の方に「拾われました?」とお聞きしました。実はその方は私は豆まきが終了した時点で私の目にふっと映った方でした。それはなぜかというと、普通は豆まきが終わって、拾った方は早速袋を破いてクジを確かめて景品交換に行き、また何も拾えなかった人は残念そうにその場を去っていきますがその方は豆まきが終わって1分前後、涅槃像に手を合わせて拝んでいらっしゃったのです。「あっ!」と思い、すかさず私が持っているクジ入りのつもりの豆袋をお渡ししました。「これクジ入りのですけどどう・・・あらっ?」なんとクジ入りの豆袋と思って、お渡ししたのが、クジが入ってなかったんです。私は「あっ、すみません。クジ入りと思ったんですが、入ってないけどいいですか?」って言いました。その女性の方は言われました。「縁起物ですから、いただけるだけでありがたいです。どうもありがとうございます。」と言われ、私に向って合掌されました。わたしもついつい合掌で応対し「こちらこそありがとうございます」と答えましたが、その謙虚なお言葉が私の心をすがすがしいものにしてくれました。謙虚な言葉や行動がこれほど人の心を動かすことを再認識した出来事でした。 南蔵院豆まき

全ては自分の責任

「全ては自分の責任」

少々時間がたちましたがあけましておめでとうございます。

皆様のお正月はどのようなお正月でしたか?

私は12月30日から1月2日までは殆んど自宅にいましたが、1月3日から1泊で長崎に行って参りました。題して「坂本龍馬を訪ねる旅&長崎グルメツアー」です。というのも年末とある旅行会社サイトからホテル○航ハウ○テンボ○に家族で1万円で泊まれるというご案内がきたのがきっかけになりました。しかもホテルでは「SASEBOグルメ&スイーツブック」と1,000分のグルメチケットも無料で頂ました。

始めは「う〜ん、どこ行くかいな?ハウ○テンボ○にいくかいな西海パールシー・・・に行くかいな?」と考えていたのですが、「せっかくやけん大河ドラマが始まる坂本龍馬ばちょっとみてみよう」ということで、ホテルは佐世保だったのですが、まず初日に長崎市に行くことにしました。

長くて坂ばかりの「龍馬通り」をなんとか駆け上がり、亀山社中記念館と風頭公園の龍馬の銅像を見学に行ってきました。多くの観光客がいる中、なんとかシャッターチャンスをということで写真も撮ってきました。

お昼に福岡を出たのでなんかばたばただったのですが、見学を終えて今回メイン?の長崎ちゃんぽんを食べようと「宝来軒別館」へ向いました。結構有名な中華料理店だったのですが開店してすぐにはいりましたのでなんとか席は確保しました。でも既に駐車場はご予約のお客様で満車だったので400m位さきの100円パーキングにおいてきました。鶏皿うどんとちゃんぽん、チャーハンその他を注文しました。(ちなみに餃子を頼んだのですが「ございません」と一蹴されてしまいました)以前四海楼のちゃんぽんも食べたことがあったのですが、また少し違う味わいでコクがあり、美味でございました。

翌日は子供のためにバイオパークへ。来場者はほんとに少なかったのですがその分色んな動物と触れ合うことができ子供も大変喜んでおりました。またバイオパークを出て、「佐世保バーガーが食べたい!」と「SASEBOグルメ&スイーツブック」800円で1,000円分のチケットを更にもう一枚購入し、「スタミナ本舗KAYA]のスペシャルバーガーセットとチキンカツレツバーガーを注文し待つこと30分・・・「うぉ〜うまそ〜!!」妻と二人でおおはしゃぎです。またポテトもホクホクしていてこれまた「うまそ〜!」でも夕ご飯を佐世保の四海楼でまたちゃんぽんと皿うどんを食べる予定だったので、ハンバーガーは半分にして残りは家に持って帰ったのです。(ちなみにその日の夜遅く残りも全部食べてしまいました!)みなさんも、うすうすお気づきかもしれませんが、お正月で2.5キロも体重が増えてしまったのです。(現在はなんとか口養生をし、元の体重プラス0.5キロまで落としています。)

さて今回は前置きが長くなりましたが今回は「全ては自分の責任」というお話です。

先日弊社社員とこんな話をしました。

社員「このあいだうちの娘の友達の親が離婚しましてね・・・」

 私「なんでまた・・・」

社員「なんかですね。ご主人が夜帰ってきたら、奥さんがもう寝てたらしいんですよ。そのことだけじゃないと思うんですけど色んなことが積み重なって暴力を振るったみたいで・・・。でも普通はそんなご主人じゃないみたいなんですけどねぇ。」

 私「そりゃいかんねぇ。どげんことがあっても暴力はいかんねぇ!まあ他人のことやから何があったかしらんけど、子供がかわいそうやね。やっぱ、夫婦はどんなことがあっても感謝の気持ちば持っとかなねぇ・・・。」

「そう簡単にいかんよ」って皆さんも思うでしょう。私もそう思います。離婚が良い悪いは人それぞれの考え方があり、また様々な事情があると思いますので何とも言えませんが、私はこう思うのです。

ご主人も企業戦士でストレスを抱え、特に昨今の経済情勢の中で大変な思いをしています。奥様もお仕事をされているのならなおさらですが、家事、子供の世話(これは休みがないですね)など毎日大変な日々を過ごしています。(皆がそう思うとは限りませんが・・・)

でもふとしたときに、ご主人の優しさとか奥様の笑顔とか子供の成長などにハッと思うことがあります。「こういうことが幸せなんだなぁ」って。こうやって色んな事柄が積み重なり家族成長が見えてくると思います。その根底には家族が夫々に対し、感謝の気持ちを持つこと。「あなたのおかげで私は生かされている」という気持ちがあれば言動にもあらわれてくると思います。

「いや、でもうちの夫(嫁)は○○が悪い!許せない!!」というかた、こう自分に言い聞かせてください。「自分の周りで起こっていることは全て自分の責任!」どうでしょう?自分の責任であれば、じゃあ自分はどうしたら良いかって考えますよね。でもこれを行動に移すのが勇気がいるんです。”人を変えるにはまず自分が変わること”昔から色んな方が言われています。そう”主体変容”です。

さあ愛する家族のために勇気を持って行動に移しましょう。私もまだまだできていませんので勇気を持って頑張ります。

子供の教育の第一義的責任は誰にあるか

今年もあとわずかとなりました。私が幼い頃は街できらめくクリスマスのイルミネーションを楽しみに、また少々気も早く、お正月のお年玉を期待しながら年末年始を迎えていたような気がします。しかし今は年末のクリスマスの光景を見てしまうと「なんて一年が早いんだ!」と時間の早さに驚くばかりです。皆様はいかがでしょうか?今年も全国的に、いや世界的にあまり景気は良くなかったように思われます。
昨年のリーマンショック以来、企業の倒産や株価の低迷、金融システムの破壊、マイナス要因が多く見受けられます。私どもでは皆様や地域の方々に支えられ、21年度もまあまあの成績がだせそうです。私は常に景気、不景気は自分の「心の持ち方」次第と考えておりますので、常に前向きに物事を考えていきたいと思っています。

さて以前お伝えしたとは思いますが、「親学教室」という講座を受講いたしました。そのときに感じたことは当然のことですが「子供は地域社会で育んでいくことも大切だが、まず第一は親である」ということを再認識しました。そのときの講師であった占部先生の、現在の国の政策を憂うコメントがございます。良い悪いは別として皆様方にも是非ご一読願いたく転載いたします。

〜子供の教育の第一義的責任は誰にあるか〜    
最近話題の「子供手当」、「高校授業料無償化」の問題も、財源をどこからひねり出すのか、論議の的はそのあたりに移った感がありますが、笑止と言わざるを得ません。事の本質を見据えた論議は殆ど提起されていないようですから、敢えて一言しておきます。
それは、こうした政策立案の思想的根拠に胡散臭いものを感じるからにほかなりません。これからの時代の子育ては個人(親)ではなく国や社会が面倒を見るのだから、子供手当や授業料無償化は当然の帰結であると事も無げにいう、その傲岸不遜な口振りは到底承服出来ません。

第一に、子供は国や社会が育てるのだという考え方が万事に優先されている点が実におかしい。こうした俗耳に入りやすい甘言に瞞されてはならないと思うのです。人の世における条理に照らしても明らかに謬見と言わざるを得ません。子育ての担い手の首位に挙げるべきは、言うまでもなく「親」であります。

この親としての貴い務めを後に追いやり、「国」や「社会」が取って代わろうとする。こうした美名のもとにますます親の責任放棄が助長されるであろうことは目に見えています。前世紀の一時期に熱病のごとく流行した共産主義の変種とでも言っていい怪しげな政策論は眉にツバして聞くべきです。

こういう事を平然とのたまう人士は、我が子を育てる気遣いや苦労、挫折や葛藤、そしてたまに得られる幸福感や満足感など、悲喜交々の人生体験を味わったことがあるのかと疑いたくなります。

未来の労働者の卵を生むマシン、それがあなたの役目です。あとは社会が預かることになっていますから、どうぞ御自分の時間を存分に堪能して下さいなどと猫なで声で言われるような社会が到来するとしたら、ぞっとします。

勿論、子供を預けて働く必要がある方もいるでしょうし、その受け皿としての施設の充実も経済的支援も不可欠です。児童手当や扶養手当などの措置も手厚くして一向に構いません。そうした福祉政策まで否定しているのではありません。

問題としているのは、子供の教育は国や社会がするのだというイデオロギーが大手を振って跳梁しはじめた点なのです。これは黙過できません。あからさまに言えば、子供を将来の金づるのごとく考えている魂胆が許せないのです。
少子化がこのまま進めば、高齢社会を支える財源が枯渇するのは目に見えている。今のうちに財源の確保をはかるために、子供は国家のコントロール下におかねばならない。そんな算盤勘定から教育政策が進められているように思われてならないのです。

考えても見て欲しい。教育基本法改訂に際して「子の教育の第一義的責任は親にある」とした、新たな方針が示されたばかりなのです。この画期的な改訂を当の政府が真っ向から否定するようなイデオロギーを振り回す。致命的な瑕疵というほかありません。

かのスウェーデンをはじめヨーロッパ諸国の多くは国や社会が教育するシステムが確立している。多額の消費税を導入して授業料だって無償だとうそぶく。まるでパラダイスのような絶賛の声が聞こえますが、はたしてそうでしょうか。

 かつて21世紀を迎えた時、当のスウェーデンで興味深い調査が行われました。20世紀を丸ごと生きた百歳を越えるお年寄りを対象に、あなたにとって一番印象に残る出来事は何でしたかという質問です。お年寄りが回答したのは、「家族の崩壊です」という衝撃的な一言でした。たしかに、家族の絆を守りながら福祉の充実をはかることは容易ではありません。しかし、その両立を目指すのがプロフェッショナルの政治であり、行政であるべきです。この世の中の「偽善」を見抜く洞察力と見識がますます求められているのだと痛感させられる昨今です。〜 NPO法人師範塾塾長 占部賢志

非常に考えさせられる内容です。はたして国民にとって都合の良いことが私達の心をゆたかにしてくれるという保証があるのでしょうか?嬉しいこと辛いこと泣きたいこと、様々な喜び・悲しみ・苦労が家族を、そして子供を育てていくような気がします。スウェーデンの百歳を越えるお年寄りの言葉が強く私達に訴えていると思います。「家族の崩壊」 私達一人一人が考え、そして心しなければならない問題です。

少々、真剣なお話になりましたが、年末年始の慌しい日々が続きます。忘年会、新年会などでお体の調子を壊さぬようお気をつけください。私はなんと11月2日より忘年会が始まり、今はそのど真ん中で少々飲みすぎな感じです。来年は皆様にとって良い年でありますように、心より祈念申し上げます。

「共生の思想」

皆様こんにちは。11月というのに日中は、たまに暑い日があります。日本の気候はどうなってるんだろうと、これから先の地球の環境が心配になります。

 さて、つい先日久しぶりに結婚披露宴に招待され、出席してまいりました。若々しいご夫婦お二人を見て、自分の新婚時代を思い出しては、懐かしくまたちょっぴりしみじみとした気持ちになりました。披露宴の中で司会者の方から、新婦が「この人なら・・・。」と心に決めたことのお話がありました。その内容はというと「新郎の○○さんは大変な家族思いですが、自分の家族以上に私の家族のことも大切に思ってもらっている。」とのことでした。最近の若者にしては立派だと感心しました。(こういう私はもう若者ではないのかもしれません。)普通は「○○な男らしいところが好き」とか「私に○○な優しいとこが・・・」とか新郎新婦が夫々の良いところを言いますが、家族を思う心が新婦の心を動かしたというのは大変素晴らしいことだと感じます。またそのように思う、感じることができるのは今まで育てていただいたご両親の教育の賜物だと思います。最近はとかく個人主義的な考え方が蔓延し、自分にとって○○だから・・・と人よりも自分を優先してしまいがちです。そうする自分のことしか考えない周りの人達も、自分ではない他人のことなどを考えないようになり、人間関係に亀裂が入ってしまいます。今さらのようですが私自身もこの新婚のお二人に教えていただきました。自分達がうまくいくには、周りの皆がまずうまくいくことが、私達が生きていくうえで大切だと感じます。
以下は稲盛和夫氏の「共生と循環」の講演からの抜粋です。
〜我々は何も教育を受けなくても、自分にとって損か得かはわかります。動物と同じように、皆本能としてこの「利己」を持っています。自分にとって都合がいいか悪いか、自分が儲かるか儲からないかという、その「利己」で物事を決めるのが大半です。もちろん「匂いがいいからこっちがいい」「この音がここちよい」というように五感によって物事を判断することもありますし、理性で理屈をいっぱい並べ立てて物事を推理推測する場合もありますが、殆んどは「利己」で判断します。その「利己」の対極にあるのが「利他」なのです。「利他」というのは何か?それは自分ではなく、他の人によかれかしという心です。人の喜びを自分の喜びに感じられる優しい心、人の悲しみが自分の悲しみに感じられる思いやりの心なのです。また、キリスト教で言う「愛」、仏教で言う「慈悲」と同じです。この「利他」と先ほど述べた「利己」が人間の心の両極端にあるわけです。問題なのは、すべての物事を「利己」で決めてしまうことです。「利己」だけで物事を決めていると、人生でも経営でも、はじめのうちは成功を遂げることができても、それを持続させることはできません。たとえばバブル崩壊を見てもわかりますように、「自分が儲けよう儲けよう」と思い、次から次へとうまい話にのっていくと、足元をすくわれてつまずくことになる。もし「自分だけよければいい」というものの考え方ではなく、自分の周囲にいる人たちがみんな、共に生きていけるようにしてあげたいという気持ちがあったなら、バブル景気にあれほどのめり込まなかったのかもしれません。財界の実力者で、人間的にも素晴らしかった方が、バブル景気の中で不祥事を起こし、没落していかれました。それはなぜかというと、利己的な視点で物事を見ていくと、非常に視野が狭くなり周囲が見えなくなってしまうからです。(中略)私は「利他の心が要りますよ」ということをいつも説いているわけですが、これから話をする共生という言葉は、この「利他」という言葉がわからなければ理解ができないのです。
◎ 自分が生きるためには、相手も生かさなければならない。
あるアフリカの原住民の部落では、男がそれぞれ弓矢を持って総出で狩りに行くそうです。そのうち誰か一人が、シカでもシマウマでも一頭倒すと、その日の狩りは終りで、みんな狩りを止めて部落に引き上げてくるそうです。獲物を倒した勇者は大変誇らしげに獲物を担ぐなり、引きずるなりして部落へ帰ってきて、それを解体して皆にお裾分けする。その部落は共同生活を営んでいますから、食べ物が手に入ると、自分だけ独り占めするのではなく、必ずまたもらったものを自分の親戚達へ余すことなく配る。末端に行くほど肉片は小さくなっていくのですが、あっちからもこっちからも貰えますから、結局は部落全体が平均したような分配に与る。そうして、どの家でも小さな肉切れと野菜やら芋やらを鍋にみたいなものに入れて煮込んで、その日の食事をするという。そこである日本人の先生が「量が少ないのではありませんか?なにも誰か一人が獲物を仕留めたからといって、狩りを止めてその獲物を分けてもらわなくても、あなたも勇敢な狩人なのだから、自分でもう一頭倒して食べたらどうなのですか?」と聞いたら「いや、そういうことはしないんだ。誰かが一頭倒せば、その日の狩りはおしまいということになっている。確かにおまえが言うように、欲しいには欲しいのだけれども、そういうことをしてはならないということになっているのだ。」と言う。村の掟として、そういうことはしてはならないので諦めているというのです。そのことをある先生は次のように説明されました。「その部落の周辺には野生のシカやウマが生存しています。そのシカやウマは赤ちゃんを産み育て、やがて死んでいき、生まれた子供はまた次の世代を産むというように、再生産と循環を繰り返しています。それを間引きして食べる分には絶えませんけど、次から次へと、俺も俺もと言って食べてしまったら、シカやウマは根絶やしになり、今度は自分達人間が食料難に陥らなければならない。誰かが一頭倒せば、その日の狩りはおしまいということが村の掟になっているけど、それはそういう自然の摂理を知っているからではないか」
つまり、自分達が生きていくために必要な分として、一日一頭しか捕らない。それはシカやウマが再生産可能な範囲、循環できる範囲でしか捕らないということなのです。人間も生きなければならないけれども、自分達が生きていくためには獲物であるシカやウマも生きなければならない。これが実は共生なのです。(中略)つまり我々に置き換えれば、社会と共生しなければならないということを知っているが故に、自分だけよければいいという行動はとれなくなるのです。〜
 
 
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